晴朝雨夜

晴れた朝も雨の夜も、変わらない一日。

Blue Moment hammer & hummingbirdへのお手紙

ブルーモーメントは、マジックアワーを過ぎて空が藍に満ちる前の、ほんの数分の空の様子です。眺めているうちに刻々と色が変わる、夜へのリミットを告げてくるような空です。
この名をタイトルに持ってきたいと思った理由は、舞台の作中に出てくる「みずいろ」の詩の中にある「深まるあお」という表現が、私の中ではこのブルーモーメントをいう綺麗な名前がついた、夕焼けの残した淡いピンクを内包した刻々と藍になっていく色を思い出させてくれたからです。
ブルーモーメントの後は、夜の闇になります。

 

舞台「hammer & hummingbird」を拝見したのち、家事をし、娘を学校に送り出し、夫の弁当を作り、日常の真ん中にしっかりと立ってもう一度舞台を思い出すことができるようになったので、私の中に残った火花の残りを、出来うる限りきちんと言葉にしておきたいと思います。

私は、本を読んだ後、感じ取った著者の体温を忘れまいとして感想を書くのですが、それに似た感じかもしれません。これは、私の中を通過した言葉が、私に残してくれたものの記憶です。目の前を通過していく綺麗なものが、鮮やかな印象の記憶だけになる前に、まだ言葉に変換できるうちに私が書く、長い長い、投函しない手紙のようなものです。

 

「hammer & hummingbird」は、詩人「中村泳」の、記憶と放浪の旅が交錯する物語でした。最初の暗転までは泳の記憶のモノローグ、その後のマッドとしての放浪は思い出と現実のダイアローグのようでした。

泳の記憶の中の母「星子」さんは、明るくて綺麗でちょっと哀れで、でもいつも泳の味方で理解者であり、その背中を押してくれる人でした。
泳の記憶として何度も現れては笑みだけを残して消えていきました。いつも最後は優しくハグをして、幾つもの優しいルールを作って。記憶だからこそ、優しくて明るい。
子供の目に映った記憶だから、本当は身のうちにあったであろう葛藤も苦しみも嘆きも微塵も見えない。生身の彼女の体温は、どれだけ熱かったのだろうか、どれだけ辛かっただろうかと、要らぬ心配をしてしまいました。
「ひとりにしないで」と泣く子を置いて去るのは、きっと身を切るよりも辛かったでしょう。

マッドのメンバーは鳥に関する名前がついているけれど、本来の鳥であるのは、「燕」「小鳥」「鴨」(泳)。体の部位の「くちばし」。部位に女性であることが付与されているような「羽子」。くちばしがないと存在できない「サエズリ」。
そして、鳥の名前を冠さなかった「つむぎ」。

つむぎが鳥の名前をつけなかったことの意味を考えていたのですが、彼女だけが喪失していない人なのだなと思いました。彼女は自分で「要らない」と現実を放り投げてきてしまったけれど、何度も母から着信がある、ちゃんと帰る場所と待つ人がはっきりしている人でした。
色々なものが泳と似ていて、でも決定的なところが違うつむぎ。
周囲から浮いた存在になっていって、誰も分かってくれないと周囲を詰る二人だけど。
詩集の中に言葉をたくさん残して、自分が消えた後の世界を祈りながら飛び降りた(生き残った)泳。呪いのような遺書を残して、復讐を胸に飛び降りようとしてできなかったつむぎ。
くちばしがマッドの他のメンバーに色々なことを教わるシーンでも、傍に居ながら空気のようなつむぎ。つむぎが異質であることは、たぶんみんなわかっているだろうに、宿木を貸すように彼女を止まらせている優しさと寛容さを受け取った彼女は、これからどんな女性になるんだろう。

同じく、名前で考え込んだのは「サエズリ」。確かに鳥に関連する言葉だけれど、彼だけ実体がない言葉なのはどうしてなのか。でも、くちばしがないとこの世に生まれ出て来ないものが囀りだなと思った時、彼は男性だけど、狂おしい母性なのかもしれないなと思いました。
くちばしを中心に回る世界、くちばしのために集める本、くちばしのための本棚、それを運ぶための車、彼女を守るための術を教えて、彼女と世界を必死で繋ぐ、守る、いつも一緒で、手を繋いで。
今でもほとんどそうですが、ほぼ私が子育ての主体なので、自分の世界の全てが子供のことになっていた時期があります。でもしだいに子供自身が自らの成長を示してくれて、お世話をお断りされることが多くなってました。「ここはもう母はノータッチでお願いします。自分でやりますお構いなく」と言われているような気分になりつつ、少しずつ手元に戻ってき始めた自分の世界を、実りある豊かな何かで埋めようと、大絶賛足掻いております。
だから、彼の慟哭が胸に刺さりました。私がやらなくちゃ、私が頑張らなくちゃ、一番良いものを一番いい形で、私が子供に与えてやらなくちゃ!って。
でもね、私が死んでも子供は生きていくんだよなと思った時、そうか、母親はいつか子供を手放すために愛するんだな、そういう愛し方じゃないとダメなんだなと、そう思ったんです。
くちばしが彼の庇護を必要としなくなった時、サエズリはどうするんだろう。サエズリというマッドの名前ではなく、彼の本当の名前が再び彼のものになるのかな。そうだといいな。

「くちばし」という名前は、色々な思いが込められているように感じられます。
口はものを飲み込むところ、子供が親から日々の糧を口移しで与えられる場所。人間だったら、乳をふくむたびに母と触れあう場所。
マッドのメンバーから色々なことを教えてもらって、それを飲み込むくちばし。
泳の詩集を、そうとは知らずに読んでもらっていて、泳の言葉も飲み込んでいるくちばし。色々なことを吸収して、大人になって、その口から紡がれる言葉が、くろい大人のことばじゃなくて、マジックアワーの色をしていますように。

「小鳥」はちょっと粗野で我儘なところがあって、子供のようだけど、たぶん、ちゃんと巣立っていく人のように思いました。
マッドの目指す夢のカリフォルニアの存在を疑って苦しんでいるけど、それは現実に目覚め始めているということでもあって、「羽子」という存在に支えられて巣立っていくような気がします。もしかしたら、カリフォルニアに着く前に。
だから、「燕」や泳につけられた「鴨」のように、実体のある、でもまだ本当の名前がない「小鳥」なのかなと感じました。

「羽子」さんは、支える人なんだろうなと思います。「星子」さんが、星のように指針になる人なら、「羽子」さんは、浮力で支える人。いろんな人を、その強さと歌で。

「燕」さんの人生の背景は辛くて、喪失を体現している人。その喪失の部分を日本のカリフォルニアを目指す旅で埋めているけれど、目的地についたらどうするのだろう。マジックアワーの海から、帰ってくるのでしょうか思い出は。
帰ってきたらいいなと思いました。帰ってくるその姿は、失った娘さんの姿じゃなくて、もしかしたらくちばしの姿をしているかもしれないけど。
だから、そうなるためにたどり着いて欲しいです。マジックアワーの美しい海に。

 泳。
放浪の旅の中で、クローゼットを打ち壊した大きくて重いハンマーが、本棚を作る小さなハンマーになって。
誰にも届いていないと思っていた自分の言葉が、ちゃんと届いていた末端を知って。
自分が紡ぎだした言葉が、確かに誰かの心の中で別の何かになっているのを知って。
世界は変わりましたか。
優しくて明るい星子さんの記憶を繰り返し思い出して、世界の中にたくさん散らばっているはずの「星子」さんの欠片を見つけだせましたか。

自分のためのマジックアワーの海の場所を示した地図を、もう手に入れましたか。

動かなくなった左手は、再び、言葉を綴る貴方の右手を支えられるようになりましたか。

喪失を抱えた人へ、いまの貴方はどんな言葉を紡いでいますか。

舞台 hammer & hummingbird

hammer & hummingbird | Superendroller

こちらの3/3ソワレで観劇しました。

 

私、妊娠するまでは観劇や観能やライブに、ぼちぼちとではありますがそれなりに行っていました。……が、やはり子供ができてからはすっかり遠ざかってしまって。
(だって、夫はちゃんとお世話できているかなー大丈夫かなーとか、ご飯食べたかなーとか、ちゃんとお風呂入ったかなーとか無駄に母性が溢れ出てきて、気になって気になって集中できないんです!)
ライブは数年前から年1回レベル(笑)で復活させてきていましたが、物語にしっかりと浸らなくてはならない観劇はなかなか手が出せずにおりました。今回、磯村さんの舞台ということで、娘も少しずつ自分の世界を持ち始めているし、私も私の世界を少しずつ復活させて、母性の塊オンリーの存在ではなく、母性をもった「私」という一人の人間に戻っていこうかな〜と思い、良い機会だし、夫もお休みの日だし、娘も(夕ご飯がパパとお寿司だったら)行っていいよって言ってくれたし、チケット取れたし! 私は「私というだけのただの人間」になって観劇に行ってまいりました。
ほんのいっとき夫と子供のことを忘れることでさえ、数年前は全くダメだったのに、今回は思ったよりずっと簡単でした。娘がちゃんと育ってくれていて、育っているということを日々私にちゃんと伝えてきてくれてるってことなんだろうな、嬉しいな。

今回の会場は初体験だったので、ちょっとだけ、過去のトラウマ(劇場の場所がわからなくて迷って、道を尋ねてもわからなくて半泣きしながら開演ギリギリにたどり着いたかつての自分)を思い出したりしましたが、この10年のブランクは私にグーグル先生という強くて優しい味方をくれました。Twitterでも道順を写真付きでtwしてくださってる方がいらっしゃって、世界は本当に優しくて素敵だなと思います。方向音痴を代表していまココでお礼を言わせてください、ありがとうございました。

事前に会場のサイトも拝見していて、客席の傾斜が十分に取られてる小屋なので、後方でもちゃんと見えるだろうなと思っていたんですが、思ったより並び順が前の方だったので3列目(演じている役者さんの目線の少し下くらいで見られる位置)にしました。個人的にはこれくらいの高さで観るのが一番好き。
(過去に「白夜の女騎士(ワルキューレ)」を一列目の席で観劇した際、ワル!役の山口紗弥加さんの激しいチャーム攻撃を受けて、蛇に睨まれた蛙になった経験があるので、前の方はすごくすごく行きたいけど、実はちょっと苦手なんです/笑)

 

 お芝居の輪郭は、公式で十分に語られているので、散文的になってしまいますが、私の思ったことを思ったままに。

素敵な舞台でした。

詩人の「泳」が、生きて、死んで、出会って、別れて、それでも生きていくお話。


劇中で、「学校は最初の社会」だという言葉が出てくるのですが、劇の冒頭でのクローゼットをハンマーで壊すシーンや母である星子さんと泳の数多くの会話、そして鏡のように泳を写す「つむぎ」との最後の抱擁シーンを思い出すと、子供にとっての最初の社会は「家庭」なんじゃないかなと感じました。たぶん、どんな社会よりルールが優しくて強くてなかなか振り払えない社会。でも、時々、思いもよらず突然奪い去られたりもする社会。
だからでしょうか、放浪するロマのようなマッドの世界しか知らない子供である「くちばし」のために、くちばしと社会へのつながりを保つために必死に本を集める「サエズリ」に、くちばしの社会への最初の扉はもう開かれているんだよ、あなたがその手を握った時にもう社会が生まれたんだよと、そう教えてあげたかった。もう最初の社会は手に入れているんだよ、貴方の手でと。
人と人が繋がることが社会なら、そこに血の繋がりがなくても誰かのために無心になれるその場所は「社会」です。

泳の母親である星子さんを演じるのは、すごく難しくて、すごく悩まれてたんじゃないかなと感じます。ちょっとちゃんとしたお母さんすぎたかなという印象も受けたんですけど、惨めすぎてもいけないし自由すぎてもいけないし、格好よくて愛に溢れてなくてはいけないし、劇中では一番シビアな役柄のように感じました。大人として、道を照らしてあげなくてはならないし。
私はもう、「母」という生き物なので、「母」という感覚を通さずに物事を見ることができなくなってしまっているけれど、何のフィルターもなくこの物語を見る人の目にはどう映ったのかな。

「つむぎ」は言葉を紡ぐからきたのでしょうか。鏡のように泳を映しながら、泳に必死で立ち向かっている様子が、とてもけなげでした。

物語の終盤、泳の詩を読み上げる星子さんの軽やかな声を聞きながら、俯いて髪に隠れて見えない泳の顔から大きな涙が床に何粒も落ちるのを見て、「つむぎ」が必死で泣くまいとしているように見えるその表情がとても綺麗でした。

 

個人的には「小鳥」のドラクエ呪文シリーズで最後に小さく「メラ」と言うのが好きでした。序盤に手にする呪文「メラ」は本当に救いの神なんだから、もっとカッコつけて「メラ!」でもぜんぜん良かったのに!(笑)
進む道を分かつことになった泳とつむぎをみんなで見送るとき、小鳥の声の大きさと身振りと様子で、二人がちゃんと立ち止まらずに道を歩いて去っていっているのだということを、こちらが受け止められるように分かりやすく伝えてくれてありがとう。

震災については、色々な思いの方を知っているので、うまく言葉にできないのですが、私の父は東北にしばらくボランティアに行っていたことがあるので、その時の話を父から色々と聞いています。思い出して話しながら、父が泣いていたのを思い出しました。どれだけ近くに居ても、寄り添うように近くに居ても、喪失を埋めてあげることはできないのだと言って。

 

日本のカリフォルニアに住んでいるという「ひだかちほ?」さんはもしかして「日高千穂」さんでしょうか。高千穂いいとこですよね。天孫降臨の地。海岸には椰子の木生えてるわね、宮崎県。日向国だし。チキン南蛮も美味しいものね。

観劇復帰第1戦、この舞台で良かったなと思います。

ビート・ジェネレーションから着想して「放浪」をテーマに描いた作品だということだったけれど、見終わって最初に思い出した言葉は、サリンジャーの言葉の方でした。

もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。

詩人でも作家でも、歌人でも俳人でも、もちろん脚本家でも、言葉を紡ぐ人はみな、やはり美しいものを残していかなくちゃいけないんだと思うのです。もしもそれを美しいと思わない人が泥を投げてきても、それを美しいと感じる他の人がきっとその泥を払うから。

最後に、主人公の「泳」のもつ弱さと美しさ、激しさと脆さ、歪さと健やかさを、自分の身を削っているかのような昂りと繊細さで表現してくれた磯村さん、本当に素敵な人を観せてくださってありがとうございました。
きっといつか水平線のその先まで泳いでいくであろうその背中を、見送った気持ちにさせてくれてありがとうございました。

舞台 hammer & hummingbird の下準備!?

hammer & hummingbird | Superendroller

こちらの3/3のソワレで観劇します。
まずはその私の下準備について(笑)

 

公演前に発表された、主宰の濱田真和氏と主演の磯村勇斗氏のインタビュー記事

qetic.jpを事前に拝見していて、「ビート・ジェネレーションから着想」と「詩人」というキーワードから心に浮かんだものが2つありました。

一つは、私の中のビート・ジェネレーションの象徴、アレン・ギンズバーグの「吠える」という詩。冒頭はこう。

僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを
アレン・ギンズバーグ(『ギンズバーグ詩集』思潮社

二つ目は、ビートではないけど、同年代のサリンジャーの作品の中の詩人に関する文章。手元に本がなくて(確か初読も図書館だったはず。サリンジャーは「ナイン・ストーリーズ」しか持ってない気がします)正確な文章が思い出せなくて、検索したら訳文の引用が検索できました。

もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。
J.D.サリンジャー(『フラニーとズーイ新潮文庫

近年、村上春樹氏の訳で文庫が出版されていて、個人的に村上氏とサリンジャーはすごく合うんじゃないかと思って読もうと思っているのに読んでません。ゴメンなさい。

ギンズバーグの詩集は手元にあったので、「吠える」は再読。やっぱりなんだかちょっと打ちのめされました。

長い詩で、初めて読んだのは高校生の頃。でも、たぶん、本当のところは何にも分からないまま読んでたんじゃないのかと思います。当時は自分の反抗や反発と重ねてしまってたかな。年齢を重ねて読み返してみて、見える世界が広がった分、読み終えた後に自分の心の中に残っていくものも違う気がします。

大好きだけど、読み返してみてもやっぱり好きな言葉たちだけど、私の本質はビートじゃないので、ビートの部分はあるのかもしれないけれど折り合いをつけられている人間なので、打ちのめされた部分を上手に言葉にしてあげられないくて、ちょっと辛いかも。

 

『hammer & hummingbird』の主人公は「中村泳(およぐ)」

翔(かける)でも、歩(あゆむ)でもなく、泳(およぐ)

とても繊細な語感だなと思いました。
止まったら死んでしまいそうで、周囲が淀んでいても死んでしまいそうで、環境が清澄すぎても死んでしまいそうで。つまりはなんだかいつもギリギリのエッジの所でもがいていそうで。
漂い続けたら沈んでしまいそうで、体を横たえて休むこともできなそうで。
どこまでも流されてしまいそうで。
でもいつか水平線の彼方まで泳いでいってくれそうで。
この精細な語感をあたえてくれる言葉で、何が綴られていくのだろうと、今から私はワクワクしているのです。