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プルーフ・オブ・ヘヴン 脳神経外科医が見た死後の世界

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脳外科医が、科学的な知識を十分に吟味した上で、自らの臨死体験を必死に描き出そうとしている本書。本書の末尾には、著者自身が臨死体験を科学的に説明し得る可能性として9つの仮説が付記されています。
どれかが科学的に正しいかもしれないし、どれも正しくないかもしれません。

発病し、死の淵に立ち、生還するまでの1週間。著者自身が昏睡状態のなかで体験した「臨死」の風景と、おそらく健康になってから当時の様子を周囲から聞き取ったのであろう彼の周りの風景とーー簡単に言ってしまうと、あの世とこの世が交互に描かれています。
著者は必死に自らの体験を克明に書き出そうとします。まるで実験の記録のように正確に。でも、それはそもそも本当に正しい記録なのでしょうか。これはデータではなく、体験。記録というよりは、記憶なのです。

そもそも記憶が体験を克明に再現しているという保証すら最初からありません。科学的な下地があればこそ、おそらく著者はいろいろな意味で苦しんだだろうと思われます。

 

脳が可塑性に富んでいることは、多くの臨床事例が示してきた事実です。記憶は容易に上書きされ、体感的な真実は事実とどんどん異なってしまうーーそれは生きていく私たちの脳の重要な必要不可欠な機能の一つです。
それが生きているということだし、生きていくということでもあります。

臨死体験の中での絶対的肯定感と愛、そして存在(あるいは己であるという認識)でしかなくなった著者を見守り続けた存在が、既に他界した会ったことのない実妹であったと著者は語ります。臨死に際して最初から最後まで著者を導き見守ったその存在の実在について思い至ったときに初めて、あの世とこの世の自分が、臨死を体験し絶対愛を理解した自分と科学者である自分とが邂逅を果たし、その両者を統合することに伝えるべき意味を見出して、その二つの世界の実在を語ろうとした著者。

この本は「愛」の本なのでしょう。
臨死体験」のなかで自らが触れた、優しく幸せな絶対的な愛を伝えるための、慰めの本なのでしょう。
脳外科医であった著者が、以前は機械的に排除していた非科学的な慰めを切り捨てずに、死に臨む人々に伝えようとしている本なのでしょう。

 

でも、私はやはり、疑うのです。
心の葛藤を収め、生きていくために記憶をすり替える達人が脳だから。
多くの臨死体験者が語る「肉親の出迎え」がなかったことに葛藤する(幼少時に養子になり、一時期実父母に捨てられたという強烈な孤独感を感じている)著者への慰めを、脳が行ったのではないのかと。
記憶を上書きし、苦しみを和らげ、葛藤の落とし所を探して感情を収めていく、それが脳の役割でもあるから。

「臨死」やその他の不可思議を否定しようなどとは思いません。
祖母の死を、その10ヶ月も前に私は夢で見ました。お骨を拾っている夢でした。翌朝、夫にその話をして、夫もお盆には私の実家に行くことに決めたので、その夢はよく覚えています。
単に私が正夢を見たのだとも言えるのだけれど、実際の火葬の光景の中で遺影や位牌があった場所は、夢ではただの白いテーブルだったので、たぶん、私の意識が時間を超えたわけじゃないのでしょう。現実と全く変わらない光景を、匂いも熱も全て現実と同じ夢を、ときどき私の脳は見せてくれるのです。

だからこそ、私は疑うのです。
不可思議は、時に、とても都合が良いものにもなってしまうことを、私は知っています。
でも、それがとても優しいもので、生きていくための命綱になることも、私は知っています。

「死」はやっぱり不可解です。死ぬ時の自分の気持ちなんて想像できないし、分かりません。
それでも著者の信じる天国の門は全ての人に開かれています。
人は愛されて生まれてくるのです。
愛してなくては、あんな長い期間女性は大きなお腹で生活なんてできないと、私は経験的に知っています。

だから「臨死体験」を疑っても、愛の世界は疑わなくてもいいんだよ。ただ、そう著者に伝えてあげたい気がします。

 

「意識とは何か」として捉えていくと、この本はまた別の見方ができるのではないかとも思います。「心とは何か」という別の問いかけともいえるでしょうか。
人は、表情筋の動きが見られなくなった顔を見ると、それを「人」と認識せず、直感的に「物体」として受け止めてしまうことがあります。蝋人形と実物を見分けることができるように、そこに「意識がない」のが直感的に分かってしまうのです。脳外科医だった著者も、実際の診療の場でそう感じていると語っています。脈打つ肉体があっても、そこに「意識」がないと物体だと捉えてしまうのです。

じゃあ「意識」って何でしょうね。

AIが話題になる昨今、相手の気持ちを推し量って自らの行動を変えるAIも存在しています。AIに肉体はありません。AIに「意識」はありません。でも相手の気持ちを考えて相手を悲しませる行動を回避しようとします。その推量は「心」なんでしょうか、それとも「プログラム」なんでしょうか。
人間は、笑みの形に表情筋を動かすと、実際には嬉しくなくても嬉しい気持ちになってきます。表情筋の動きが「心」を動かしてしまうのです。それだけでなく「嬉しい笑み」を浮かべた他者の表情を見ると、その笑みに共感してなんだか嬉しくなります。プログラミングされた共感は、はたして共感と呼べるものなのでしょうか、そしてそれは「心」なんでしょうか。

この本を読み、生きることと死ぬこと、意識と無意識を考えていると、私という存在そのものが不可思議の海の真ん中で漂っているような気持ちになります。