晴朝雨夜

晴れた朝も雨の夜も、変わらない一日。

ゴースト・ボーイ

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12歳の時に病になり、しだいにゆっくりと体の機能が失われて植物状態になってしまった著者。10年以上を植物状態で過ごしたある日、彼の心だけが少しずつ目覚め始めました。
全く動かない肉体の檻に囚われたまま、誰も彼の心の帰還の兆しに気づかず、彼はぽつんと部屋の中に置かれた観葉植物のように日々を過ごします。自らの意思に誰かが気づくことを期待し、体の自由を取り戻そうと念じ、叶わず絶望し、自らに降りかかる心ない行為に傷つきながら、なんとかして自らの意思を伝えようと試みるのです。
最初に彼の意思に気がついたのはセラピスト、そして両親。そこから、彼は両親の強い意志と愛情に助けられながら「人」としての自分を取り戻すための戦いをはじめます。

本書の中では、植物状態になった彼の身に起こった、人としての尊厳を踏みにじるようなショッキングな行為も語られます。
人形を相手にするかのような理不尽な行為を、彼の心は肉体の檻の奥から、冷淡ともとれるほど冷静に見つめているのです。

読み進めるうちに、ふと我が身を振り返りました。

介護の経験はありませんから、実感は湧いてきません。でも、自分の行為への反応がない相手を毎日ケアする日々を想像して、その無反応さに平静でいられるだろうかと想像してみました。

どんなに愛情と親しみを込めて接しても、相手から全く反応がない日々が続いても、私は変わらない丁寧さで彼に接することができるだろうか。もちろん、それは仕事なのだから、変わらない丁寧さで接するのが当然。できて当たり前。
それでも、次第に彼を人ではなく物を扱うようになってしまうのではないか。
彼が作中で語るように、まるで観葉植物か人形に語るように、自分の日々の嘆きを語りかけたたり、忙しなく少し乱暴な手つきになったり、時々手を抜いたりしてしまいはしないだろうか。それを誰も戒めず、それに誰も気づかないなら、何をしても許される気になってしまうんじゃないだろうか。

彼の身の上に起こった悲劇のような出来事を思う前に、私の胸に湧いたのは自分の倫理観と正義感への不安や疑いでした。

天寿を全うした祖母を病院に見舞う時、自分の心の中に一片の義務感もなかったとは言い切れない、そんな自分の浅さと身勝手さ。あれもこれも、私には出来たはずなのに、優しさに甘えてしまったこと。
彼のためではなく、私自身のために、この本を読んで泣きました。悔いました。謝罪しました。
時間のなさや様々な困難を言い訳にせず、慈しみたいという自分の気持ちをもっと大切にする努力をしようと思いました。

日々に追われて忙しなく心を失っていくのは、本当に簡単なことかもしれません。でも、優しく佳き人でいたいなら、努力が必要なのだと実感しました。
誰かとつながり、誰かの幸せを喜び、些細な日常を楽しみ、自分がこうありたいと願っているようなささやかな安らかさは、自分の力だけではたどり着けない、周囲の優しさと努力の上にあることだったのだと知りました。

何も考えない日常の些細な行動が、とても優しい人になりたいな。

ネガティブなインパクトのある単語の方が人の目を惹くかもしれないし、ポジティブで派手な言葉の方が人を鼓舞するかもしれないけれど、そんな強い言葉なんてひとつも要らないから、何気ない小さな一言で誰かを傷つけてしまわないような人になりたい。

 

人としての尊厳を踏みにじられるような行為を受けた彼が、再び彼の人生を取り戻した時、彼はそんな自分の過去を悼み、過去に別れを告げます。
「赦し」のようにも感じられるそれは、彼が「愛」を知ったからでしょう。彼の中にある強い愛と、彼を取り巻くたくさんの「愛」のことを彼は考えます。

彼を誰よりも愛し、人生の伴侶となった女性の「愛」
観葉植物に語るようであっても、包み隠さず日々の苦しみや悩みを語りながら彼を介護していた施設の職員たちの日常の「愛」
自分に向けられた兄弟の屈託のない「愛」
彼の帰還の兆しに気がついたセラピストの「愛」
恐る恐る世界に復帰していった彼を偏見の目で見ることなく、一人の社会人として接してくれた同僚たちの「愛」
彼の体験に関心を寄せる人々の「愛」

なによりも、絶望と背中合わせのまま、必死でもがいているような両親の苦しみに満ちた「愛」

眠った肉体の檻の中で心だけ生きている誰にも見えない亡霊だった著者を、彼の母は「もう戻ってくることはないだろう」と一度諦めています。
その事実が母の言葉から伺い知れた時、著者は、彼の母の中に健康だった12歳までの自分が亡霊のように住み着き、母が今でも、愛しい息子を喪失していったという生々しい傷の痛みに日々苛まれているのだと感じます。反応を返さない愛しい息子を見つめる日々は、母にとって、狂おしいほどの愛情と喪失と絶望の日々であったことでしょう。
彼は号泣します。
それは、もうけして取り戻せないものを、本当の意味で彼が自覚した瞬間だったのかもしれません。そして、彼がただひとり彼自身の足で人生を踏み出した瞬間だったのかもしれません。
彼の亡霊との別れの儀式に必要な、別れの涙であったように感じます。
彼が、過去から一歩前に踏み出して、亡霊を悼み、「彼」として未来に進む姿を見送ることができて、本当に嬉しかったです。
そして、素手て砂地を何度も叩いて固めていくようにして自分の生きる場を獲得していく、その強さと苦しみにいつも愛が寄り添っていますように。

 

人とつながること。

人に伝えること。

人を感じること。

 

小さくて優しいものをどんどん取りこぼしてしまうような目の粗い日常を反省して、自分の感情から一歩引いてしっかりと立って周囲を眺めてみようと思います。
気づかなかったことに気づけるように。

一歩ずつ、そうなりたいと願いました。