晴朝雨夜

晴れた朝も雨の夜も、変わらない一日。

舞台 hammer & hummingbird

hammer & hummingbird | Superendroller

こちらの3/3ソワレで観劇しました。

 

私、妊娠するまでは観劇や観能やライブに、ぼちぼちとではありますがそれなりに行っていました。……が、やはり子供ができてからはすっかり遠ざかってしまって。
(だって、夫はちゃんとお世話できているかなー大丈夫かなーとか、ご飯食べたかなーとか、ちゃんとお風呂入ったかなーとか無駄に母性が溢れ出てきて、気になって気になって集中できないんです!)
ライブは数年前から年1回レベル(笑)で復活させてきていましたが、物語にしっかりと浸らなくてはならない観劇はなかなか手が出せずにおりました。今回、磯村さんの舞台ということで、娘も少しずつ自分の世界を持ち始めているし、私も私の世界を少しずつ復活させて、母性の塊オンリーの存在ではなく、母性をもった「私」という一人の人間に戻っていこうかな〜と思い、良い機会だし、夫もお休みの日だし、娘も(夕ご飯がパパとお寿司だったら)行っていいよって言ってくれたし、チケット取れたし! 私は「私というだけのただの人間」になって観劇に行ってまいりました。
ほんのいっとき夫と子供のことを忘れることでさえ、数年前は全くダメだったのに、今回は思ったよりずっと簡単でした。娘がちゃんと育ってくれていて、育っているということを日々私にちゃんと伝えてきてくれてるってことなんだろうな、嬉しいな。

今回の会場は初体験だったので、ちょっとだけ、過去のトラウマ(劇場の場所がわからなくて迷って、道を尋ねてもわからなくて半泣きしながら開演ギリギリにたどり着いたかつての自分)を思い出したりしましたが、この10年のブランクは私にグーグル先生という強くて優しい味方をくれました。Twitterでも道順を写真付きでtwしてくださってる方がいらっしゃって、世界は本当に優しくて素敵だなと思います。方向音痴を代表していまココでお礼を言わせてください、ありがとうございました。

事前に会場のサイトも拝見していて、客席の傾斜が十分に取られてる小屋なので、後方でもちゃんと見えるだろうなと思っていたんですが、思ったより並び順が前の方だったので3列目(演じている役者さんの目線の少し下くらいで見られる位置)にしました。個人的にはこれくらいの高さで観るのが一番好き。
(過去に「白夜の女騎士(ワルキューレ)」を一列目の席で観劇した際、ワル!役の山口紗弥加さんの激しいチャーム攻撃を受けて、蛇に睨まれた蛙になった経験があるので、前の方はすごくすごく行きたいけど、実はちょっと苦手なんです/笑)

 

 お芝居の輪郭は、公式で十分に語られているので、散文的になってしまいますが、私の思ったことを思ったままに。

素敵な舞台でした。

詩人の「泳」が、生きて、死んで、出会って、別れて、それでも生きていくお話。


劇中で、「学校は最初の社会」だという言葉が出てくるのですが、劇の冒頭でのクローゼットをハンマーで壊すシーンや母である星子さんと泳の数多くの会話、そして鏡のように泳を写す「つむぎ」との最後の抱擁シーンを思い出すと、子供にとっての最初の社会は「家庭」なんじゃないかなと感じました。たぶん、どんな社会よりルールが優しくて強くてなかなか振り払えない社会。でも、時々、思いもよらず突然奪い去られたりもする社会。
だからでしょうか、放浪するロマのようなマッドの世界しか知らない子供である「くちばし」のために、くちばしと社会へのつながりを保つために必死に本を集める「サエズリ」に、くちばしの社会への最初の扉はもう開かれているんだよ、あなたがその手を握った時にもう社会が生まれたんだよと、そう教えてあげたかった。もう最初の社会は手に入れているんだよ、貴方の手でと。
人と人が繋がることが社会なら、そこに血の繋がりがなくても誰かのために無心になれるその場所は「社会」です。

泳の母親である星子さんを演じるのは、すごく難しくて、すごく悩まれてたんじゃないかなと感じます。ちょっとちゃんとしたお母さんすぎたかなという印象も受けたんですけど、惨めすぎてもいけないし自由すぎてもいけないし、格好よくて愛に溢れてなくてはいけないし、劇中では一番シビアな役柄のように感じました。大人として、道を照らしてあげなくてはならないし。
私はもう、「母」という生き物なので、「母」という感覚を通さずに物事を見ることができなくなってしまっているけれど、何のフィルターもなくこの物語を見る人の目にはどう映ったのかな。

「つむぎ」は言葉を紡ぐからきたのでしょうか。鏡のように泳を映しながら、泳に必死で立ち向かっている様子が、とてもけなげでした。

物語の終盤、泳の詩を読み上げる星子さんの軽やかな声を聞きながら、俯いて髪に隠れて見えない泳の顔から大きな涙が床に何粒も落ちるのを見て、「つむぎ」が必死で泣くまいとしているように見えるその表情がとても綺麗でした。

 

個人的には「小鳥」のドラクエ呪文シリーズで最後に小さく「メラ」と言うのが好きでした。序盤に手にする呪文「メラ」は本当に救いの神なんだから、もっとカッコつけて「メラ!」でもぜんぜん良かったのに!(笑)
進む道を分かつことになった泳とつむぎをみんなで見送るとき、小鳥の声の大きさと身振りと様子で、二人がちゃんと立ち止まらずに道を歩いて去っていっているのだということを、こちらが受け止められるように分かりやすく伝えてくれてありがとう。

震災については、色々な思いの方を知っているので、うまく言葉にできないのですが、私の父は東北にしばらくボランティアに行っていたことがあるので、その時の話を父から色々と聞いています。思い出して話しながら、父が泣いていたのを思い出しました。どれだけ近くに居ても、寄り添うように近くに居ても、喪失を埋めてあげることはできないのだと言って。

 

日本のカリフォルニアに住んでいるという「ひだかちほ?」さんはもしかして「日高千穂」さんでしょうか。高千穂いいとこですよね。天孫降臨の地。海岸には椰子の木生えてるわね、宮崎県。日向国だし。チキン南蛮も美味しいものね。

観劇復帰第1戦、この舞台で良かったなと思います。

ビート・ジェネレーションから着想して「放浪」をテーマに描いた作品だということだったけれど、見終わって最初に思い出した言葉は、サリンジャーの言葉の方でした。

もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。

詩人でも作家でも、歌人でも俳人でも、もちろん脚本家でも、言葉を紡ぐ人はみな、やはり美しいものを残していかなくちゃいけないんだと思うのです。もしもそれを美しいと思わない人が泥を投げてきても、それを美しいと感じる他の人がきっとその泥を払うから。

最後に、主人公の「泳」のもつ弱さと美しさ、激しさと脆さ、歪さと健やかさを、自分の身を削っているかのような昂りと繊細さで表現してくれた磯村さん、本当に素敵な人を観せてくださってありがとうございました。
きっといつか水平線のその先まで泳いでいくであろうその背中を、見送った気持ちにさせてくれてありがとうございました。